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神戸地方裁判所姫路支部 昭和38年(わ)580号 判決 1968年9月30日

被告人 富士原義広

主文

被告人は無罪。

理由

一、一件記録によると、次のような事実が認められ、右認定を覆えすに足る証拠はない。

(一)、本件発生当時の状況

1、被告人は昭和一八年以来外科専門医としての道を歩む臨床医師であり、昭和三一年四月以後は姫路市所在姫路鉄道病院外科医長として勤務する者であること

2、昭和三八年二月二五日午前一〇時過頃、当時国鉄姫路駅助役の職にあつた平岡章(当五五年)が外来患者として右病院外科に来院し、診察を求めたこと

3、被告人は診察室において直ちに診察に当ることになり、「どこが悪いのですか」と発問したに対し、平岡は右の胸にできものができてピクピクと痛い旨を訴えたこと

4、そこで被告人は脈膊をはかり、「何かいままで変つた病気をしたことはありませんか」と既往症を尋ねたが平岡から特別何の返答もないままに、「どこが痛いですか」と直接患部への視診、触診を行い、平岡の右胸部及び背中にできている粟粒大の暗赤褐色の水泡状斑点約一〇乃至二〇個の密集を認めて「帯状疱疹」と診断し、なお聴診、打診も行つたが他に異常は認められなかつたこと、

5、帯状疱疹という病気は通常神経痛を伴うもので、平岡の場合肋間神経痛を起しているので痛みを訴えているものと判断した被告人は、消炎剤として患部にチンク油を塗るとともに、鎮痛剤としてサルソグレラン静脈注射二〇C・Cを行うことに決め、平岡との間に「サルソグレランの注射をしましよう」「はい」との問答の後、同日午前一〇時三〇分頃直ぐ隣の処置室にいた看護婦池田敏子を呼んで右処方を指示したこと

6、池田看護婦は平岡を処置室寝台に仰臥させ、その腕の中関節内側の静脈に指示どおりサルソグレラン注射液一アンプル二〇C・Cを注射したこと

7、池田看護婦は当時看護婦歴約一四年の経験を持つ熱練者でサルソグレラン静脈注射はゆつくり薬液を注入しなければならないこと、注入速度がはやいと体が熱くなつたり気分が悪くなつたりすることがあるのを良く知つていたから、注射前に平岡に対し「体が熱くなるから気分が悪くなれば言つて下さい」と告げたうえで、ゆつくりと静脈内に薬液を注入し約二分で終えたこと

8、右注射中、平岡は気分が悪そうな反応は示さなかつたにも拘わらず、注射終了直後気分が悪いと訴え嘔吐しそうな様子で口や鼻から泡沫を交えたよだれ状の粘液を出し、ぜん息発作のような声を出していたが、間もなく意識がなくなつたこと

9、池田看護婦に急を告げられかけつけた被告人は、平岡がシヨツク症状を呈していると診て、直ちに昇圧剤、強心剤等の注射、人工呼吸、酸素吸入、気管切開等、約二時間あらゆる手段を尽し懸命に平岡の蘇生をはかつたが空しく、遂に同日午後〇時三〇分頃平岡を死亡と認めたこと

10、被告人の前記帯状疱疹との診断及びその治療方法としてサルソグレラン二〇C・C静脈注射を用いたことに過誤はないこと

11、平岡の右死亡は、サルソグレラン二〇C・C静脈注射による急性死であつて、薬物によるシヨツク死と認められること

12、保健婦助産看護婦法第三七条には、「保健婦助産婦看護婦又は准看護婦は、主治の医師又は歯科医師の指示があつた場合の外、診療機械を使用し、医薬品を授与し、又は医薬品について指示をなし、その他医師若しくは歯科医師が行うのでなければ衛生上危害を生ずる虞のある行為をしてはならない。但し臨時応急の手当をなし、又は助産婦がへそのおを切り、かん腸を施し、その他助産婦の業務に当然附随する行為をなすことは差支ない」と定められていること

13、右条文の解釈上、静脈注射については「薬剤の血管注入による身体に及ぼす影響の甚大であること及び衛生的に困難であること等の理由により、医師自ら行うべきものである」との見解が従来採用されており、厚生省医務局長名において、また兵庫県においては兵庫県衛生部長名においてその旨の通達指導等が昭和二六年頃以来なされていたこと

14、従つて静脈注射を看護婦が行うことは前記法規に抵触することとされてはいるけれども、本件当時においては一般にこれが徹底せず、医師数の不足等の理由により大部分の病院等においては、医師の指示により看護婦が静脈注射を行つていたのが実情であつて、今後漸次法の解釈どおりの実行に近づくべく改善する方針が採られていたこと、

(二)、平岡章の病歴と体質

1、昭和三三年一月一六日姫路鉄道病院内科にて受診、感冒との診断でグレラン一グラムを含む内服薬四日分の投薬を受けたこと

2、同年同月二三日再び内科で受診、治療不詳

3、昭和三三年三月七日、同病院内科で受診、筋肉痛との診断を受けたが特に治療は受けず

4、前同日同病院外科にて被告人の診察を受け、右肘関節変形性関節症との診断を受け、サルソグレラン二〇C・CとビタミンB1の混合静脈注射のほか、シングレラン錠六錠一日分を三日分投与を受けたこと(3と4を併せ考え、当日最初内科に来たのを外科に回されて、右のような治療を受けたものと考えられる)

5、同年三月一一日引続き外科にて被告人の診察を受け、前同様サルソグレラン二〇C・CとビタミンB1の混合静脈注射及びシングレラン錠一日六錠四日分の投与を受けたこと

6、更に同年同月一三日前同様被告人の診察を受け、サルソグレラン二〇C・CとビタミンB1の混合静脈注射を受けたこと

7、昭和三七年一月初頃勤務中の平岡が、かぜ気味とのことで勤務先の常備薬の箱の中から錠剤をのみ、その後入浴したところ浴場で気分が悪くなり、そのまま職場の部屋で約一時間横臥して回復したこと

8、同年一一月九日飲酒し翌一〇日は二日酔で頭痛があつた平岡は、同僚から錠剤をもらつてのんだところ気分が悪くなり同僚に附添われて姫路市若菜町須山繁医院にて受診した。須山医師が診察したところ、顔面そう白、冷汗が出てグツタリし、いわゆるシヨツク症状を呈していた。のんだ薬はシングレラン錠とのことであり、また以前かせ薬をのんで同様な症状に陥つたことがあるとの附添同僚の話から、須山医師は平岡をピリン系薬剤に対する過敏者と認め、ブドウ糖、グロンサン、ビタカンフアの静脈注射等の手当をし、やがて回復した平岡に対し、「以後薬局等で薬をもらつてのむ時、医師の治療を受ける時には、この日のような症状になつたことがある旨を自ら申し出るように」と、特に注意を与えて帰宅させたこと

9、国鉄姫路駅職員が当時常用していた常備薬の種類は、シングレラン錠、バツフアリン錠、健胃錠、チンク油、キユロフラシン軟こう、オキシドール、クレオソート、ミアリサン等で、そのうちバツフアリン錠はかぜ薬の白い錠剤で外見はシングレラン錠とよく似ていて素人眼には区別がつけ難く、平岡が前記7、8でのんだという錠剤も、果して二回ともシングレラン錠であつたかどうか、証拠上いま一つ明白でないこと

10、平岡は前記7、8の症状から回復した当時、家族の者に職場で薬をのんだら気分が悪くなり、危うく生命を落すところだつた、あの薬は皆平気でのんでいるのに、自分にだけは合わんらしい、今後絶対のまないようにする旨語つていたこと、

11、平岡は生前いわゆる大病もしたことのない一見健康体ではあつたが、本件で死亡後行われた遺体解剖の結果によれば、普通の成人なら既に脂肪織化してしまつているはずの胸腺が、半分は脂肪織化しているが半分は未だに腺質を残した、いわゆる胸腺遺残の状態でその重さ二四グラム、心臓はその手拳の約一・五倍で重さ四四五グラムの脂肪心であること等、従来いわゆる特異体質者といわれる者に類似の器質的特徴を持つていたところから、やはり特異体質者あるいは過敏性体質者であつたとの推定を受けること

12、前記のような臓器所見は、解剖する以外に人体外部から知り得る方法はないこと、従つて被告人もまた平岡が器質的に特異体質者的あるいは過敏性体質者的特徴を持つ者であることはもちろん知る由もなかつたこと

(三)、サルソグレラン静脈注射液の性質

1、サルソグレラン注射液は、グレラン製薬株式会社製造にかかる二〇C・Cアンプル入り、静脈注射用解熱鎮痛消炎剤で、その二〇C・C中の成分分量は、グレラン(ピラビタール)〇・一五グラム、サルチル酸ナトリウム〇・三グラム、サルチル酸カルシウム〇・二グラム、臭化ナトリウム〇・五グラム、ブドウ糖二・〇グラムであること

2、右注射液成分中のピラビタールは、催眠剤バルビタールと解熱鎮痛剤アミノピリンとの結合体で、注射液一アンプル中に五〇〇ミリグラム以上含まれる場合は当該薬品は劇薬となるけれども、それ以下の場合は普通薬の扱いを受けるのであつて、サルソグレランにはピラビタールは一五〇ミリグラムしか含まれておらず、従つて普通薬であること。また右成分中のアミノピリンだけについてみても本来は劇薬であるが、サルソグレラン含有のアミノピリンは一〇〇ミリグラムであり、その含有量二〇〇ミリグラム以下は普通薬の扱いを受けるから、この面から見ても、サルソグレラン注射液は普通薬であること

3、しかるに、サルソグレラ注射液の静脈注射によつて急性死を遂げるものがあり、

イ、製造元のグレラン製薬株式会社自体が本件当時までに実地に調査した事例として、(一)、昭和三四年大阪において一件、(二)、昭和三五年長野県下において一件、(三)、昭和三六年北九州において一件合計三件あり、患者はいずれも肝臓心臓に脂肪変性を来し、副腎ひ薄、あるいは胸腺実質遺残等のいわゆる特異体質者と目されるものであつて、それぞれ当時その地方で新聞報道もなされていること

ロ、更に東京都監察医務院において本件当時までに取扱つた変死者のうち、(一)、昭和三二年一月に一件、(二)、同年九月に一件、(三)、昭和三五年八月に一件合計三件、ほかにサルソグレラン類似のサルピラ静脈注射による急性死と考えられるものが昭和三七年二月に一件発生し、患者は前同様いずれも特異体質者と推定される場合であつたこと

ハ、また神戸医科大学法医学教室での取扱例として、昭和三二年一〇月に一件、患者はやはり特異体質者を思わせる特徴があつたこと

4、以上のように、サルソグレラン静脈注射による急死例が、いわゆる特異体質者と推定される者に限つてではあるが、昭和三二年頃以来現実に数件散見されるということは、すなわち、いわゆる特異体質者についてはサルソグレラン静脈注射による急死の可能性が時としてないではなかつたと言えること

5、ところが東京都監察医務院の右急死の具体例はその記録にとどめられただけで、医師会その他然るべき医学会等にも全く報告的手段もとられないままで放置され、社会問題となるに至らなかつたこと

6、グレラン製薬株式会社自体も前記のような急死の資料を持ちながら、その後の処置としてはサルソグレラン注射液添付の説明書にそれまでは単に「注射の速度大なる時は一過性に眩暈、嘔気、迷朦感の発生を見る事あるを以て必ず緩徐に行うを要す」と用法上の説明をするに止めていたものを、昭和三四年二月以降は注意欄を設け、「注射は必ず緩徐に行うこと、注射の速度が早いと血管痛または一過性の眩暈、嘔気の発生をみることがある。なおピリン剤に対し特異体質の者に対しては使用上特に注意を要する」とその記載を変更したものの、事人命に関する重大事であるのに、企業利益の面から得策でないとの判断からか、あるいはその他の理由からかは明らかでないが、率直に右急死例を具体的に公表し特に医療関係者の注意を喚起する方策を講じた事跡が認められないこと

7、グレラン製薬株式会社はその前身を当初柳沢薬品商会と称し、前記1記載と同一の成分分量のサルソグレラン二〇C・C静脈注射液を昭和九年頃から製造販売していたものであつて、昭和二五年頃グレラン製薬株式会社と改称し今日に至るが、本件に至る以前の数年間では総計約六千万本余、年間平均約八百数十万本の右注射液アンプルの製造販売をしていること

8、一方、東京大学、京都大学、慶応義塾大学、岡山大学等の各医学部法医学教室においては、サルソグレラン静脈注射による急死の取扱例が従来全くないこと、これらの大学はわが国の法医学界を代表するものと考えて差支えないから、わが法医学界においても前記神戸医科大学の一例を除き、サルソグレラン静脈注射による急死の可能性は、現実には本件当時までに未だ殆んど認識されていなかつたと認められること

9、わが国の製薬業界において、サルソグレランと類似の成分を含む静脈注射用解熱鎮痛剤は従来約七三種類、その中特にサルソグレランと同一成分と考えられるものだけでも約一〇種類生産され、これらの総合計は年間数千万アンプルにものぼると推定されるところ、臨床医師の間でも昭和九年頃以来一貫して、サルソグレラン静脈注射液は極めて安定度の高い解熱鎮痛剤として内科外科等において多用され、その効用を疑う者は先ずなかつたこと

10、その間において、右静脈注射液による副作用として、いわゆる薬物シヨツクによる患者の急死した事例の発生が前記のように極めて稀であるのに加え公表されることもなかつたうえに、臨床医師、医学界を問わず患者で少し気分の悪くなる例はあつても、急死はおろか患者の卒倒したことすら経験したことのない者が殆んどであつたこと、従つてサルソグレラン静脈注射により急性死の可能性があることを本件当時に認識している医師は稀有であつたこと

11、サルソグレラン等同種注射液は、副作用として静脈注射の際その注入速度が早いと血管痛または注射後灼熱感、悪心、嘔気、めまい、時に嘔吐を来すことがあり、またこれらの薬品はピリン系薬剤と称せられるが、ピリン剤に対する過敏性体質者あるいは特異体質者が稀にあり、注射によつてジンマシン、水泡疹、皮膚炎、そう痒症、発熱等のいわゆるアレルギー症状を呈する場合のあることは、従来医師によつて基本的に十分理解せられていること

12、従つて前記6のとおり、サルソグレラン静脈注射液の説明書注意欄に、昭和三四年二月以降「ピリン剤に対し特異体質の者に対しては使用上特に注意を要する」との記載がなされても、前記6から11までの事情から医師の間では前記11の程度の副作用の意味において理解せられていたに止まること

13、ペニシリンシヨツクを防ぐために用いられるような予備テストの方法は、サルソグレラン注射液については今日に至るも未だ開発されていないこと

14、人間、つまり患者の身体の状況は個人個人で異なるうえに、同一人であつてもその日その時の環境、条件によつて身体状況が同一ではないことは、前記認定のとおり本件の場合において、平岡は本件以前にサルソグレラン静脈注射やシングレラン錠の投与を連続数回受けながら、その時は何の異常もなかつたのに、本件ではそれが原因で急死したと見られることによつても明らかであること

15、特異体質とは何か、薬物シヨツク、アレルギー症状等のいわゆる異常反応の生ずる真の原因は何か等の命題は、医学上未だ研究途上のものであり結論は得られていないこと

二、ところで本件公訴事実は、被告人の過失として、「サルソグレラン二〇C・C静脈注射液は特異体質者にアナフラキシーシヨツクを来す可能性の強いアミノピリンを含んだ薬品であるから

1、医師が患者への施用に当つては、薬品に対する体質の過敏性の有無を問い正し、あるいは予備テストを行う等して特異体質者であるかどうかを確認すべき義務があるのに怠つたこと、

2、右静脈注射の際は、医師自ら患者の反応を注視しながら徐々に注射すべき義務があるのに、これを怠り無謀にも何らの注意をすることなく看護婦池田敏子に命じて静脈注射をさせたこと」

を指摘しているので、以下順次検討する。

三、当裁判所の判断

二、の1の点につき

(一)  なるほど、患者はその生命身体のすべてを医師に托して診療を受けるものであるから、いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師は、その業務の性質に照し危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるものであることは言うをまたない。しかしながら、その注意義務は決して一般的普遍的な、例えば医療行為自体において人を死に至らしめないよう注意すべしというような、包括的なものではなく、当事者のその当時の行為環境を背景とした具体的個別的な注意義務でなければならない。

(二)、次には、この注意義務の前提として事故発生予見義務あるいは危険回避義務が問題となるのであるが、この事故発生予見あるいは危険回避の可能性の有無を決定する事情は、当事者が当時全く不可知のものをもつてすることはできず、当事者が知りまたは通常知ることのできた事情でなければならない。すなわち本件において、被告人に過失があると言い得るためには、先ず被告人が患者たる平岡に対し医師として払うべき注意義務を尽していたならば、サルソグレラン静脈注射により平岡が薬物シヨツクを起して急性死を遂げるおそれのあることを予め知りまたは知り得た場合でなければならないのである。

(三)、以上の前提に立つて考慮をめぐらすとき、先ず本件において最も注目さるべきことは、前認定のとおり、サルソグレラン静脈注射の結果、いわゆる過敏性体質者もしくは特異体質者と推定される限られた範囲ではあるが、薬物シヨツクにより死亡する可能性は客観的に一応あつたと言えるけれども、その確率は年間約八百五十万分の一ないし二といつた極く微少なものであつたに加え、製薬業界と医学界、または臨床医師を含む医学界内部での縦横相互の連絡提携が余り密でないことも手伝い、右の極く微少な死亡可能性は、死亡事例を現実に認知した極く一部の製薬、医療関係者を除き、殆んど大部分の医学者、臨床医師においては本件発生当時全く認識されていなかつたこと、つまり当時のわが国の通常の医師あるいは平均的な医師の持つべき医学上の知識としては、右死亡可能性は認識されておらず、被告人も一臨床医師としてその例外でなかつたと認められることである。

(四)、しかも前認定のとおり、いわゆる特異体質者あるいは過敏性体質者であるかどうかは、その人体の解剖の結果、それらしい臟器的体質的特徴の観察により初めて推定し得ることであり、これを人体外部から察知することは不能なのであるから、本件において被告人が平岡の診察に際しいかに聴診、打診、触診を綿密に加えても分り得るものでなく、またサルソグレラン静脈注射液については、例えばペニシリン注射のように注射前にいわゆる予備テストを行い、過敏者あるいは特異体質者かどうか一応の判定を得るような方法も未だ開発されていないのであつたから、科学的検査の方法を以てしても注射前に平岡が過敏者ないしは特異体質者であることは、絶対に予知できなかつたことが明らかであり、右の診療方法の限りにおいては被告人に医師としての過失は全く認めることができない。

(五)、ただ一点、本件については、前認定のとおり、平岡が以前に薬物による異常反応を経験している事情があるだけに、被告人が問診の際に、前認定のとおり「どこが悪いですか」、「どこが痛いですか」、更には「今まで何か変つた病気はしたことありませんか」と平岡に質問した以外に、例えば「今まで注射を受けたとき、あるいは薬をのんだときなどに、気分が悪くなり意識が薄れたり倒れたりなどしたことはないか」とか、「かぜ薬や鎮痛剤をのんだ時に、何かひどい副作用はなかつたか」との旨の、ピリン系薬剤に対する過敏者あるいは特異体質者ではないかどうかを確かめるための質問をしておれば、以前そのような反応を二回も経験し須山医師からも特に前記のような注意を受けていた平岡としては、直ちに医師の右質問に対応する適切な返答をしたであろうと推測されるところから、右の旨をも交えたより適切な問診を行わなかつた点に、医師として被告人に過失があるのではないかとの疑問があるので、この点につき検討を加える。

(六)、そもそも問診はどの程度に行われればよいのであろうか、先にも述べたとおり、患者はその生命身体のすべてを医師に托して診療行為を受けるのではあるが、それは医師のすべての診断が終り治療方針も決定された後の段階では正にそうであつても、それ以前の段階特に当初患者の訴えを聞いて医師が問診を行い、医師が全く知る由もない患者独自の純然たる内部的事情を聞き出そうと試みる、いわば手採りの段階においては、一がいにそうとは言えないのではなかろうか。

つまり、問診は、元来医師の質問とそれに対する患者の返答によつて成立するものであり、しかもその結果が医師の診断と治療方針を決める出発点なのであるから、医師ももちろん順次適切な質問を行うべきであるが、患者もまたこれをよく理解し適切な返答をすべきであること言うをまたない。すなわち、医師の医療行為を受けるに際し、治療方針決定の導入部門をなす問診の成否については、患者がその独自の純然たる内部的事情を適切に告白する協力を欠かすことはできないと考える。

(七)、もちろん、そうは言つても患者その人の年令、教育程度、職業、既往疾患の経験等によつて、一がいには言えず、またこれは患者の過失との関係での危険の分配を問題とするわけでも毛頭ないけれども、少くとも本件の場合のように、年令五五歳の国鉄姫路駅助役までしている成人男子の患者であつて、前記のような薬剤服用後の異常反応を経験し、その当時診察した医師から前記のような特別の注意まで与えられていた者としては、被告人の診察を受けた本件当時、「どこが悪いですか」、「どこが痛いですか」との被告人の質問に対しては未だしもとしても、「今までに何か変つた病気はしたことはありませんか」との質問を受けた段階では、右異常反応の経験を直ちに思い起しその事実を告げるべきであつたし、少くとも「サルソグレラン静脈注射をしましよう」「はい」との応答がなされた時点に至つては、須山医師の前記注意を思い出し直ちに被告人にこれを告げるべきであつたと思われる。あるいは平岡にしてみれば、前認定のとおり本件以前にも被告人の診察によりサルソグレラン静脈注射を数回受けたけれども、その当時は別に異常反応も無しに済んだことを思い出し、本件当時サルソグレラン静脈注射を射たれると知つても、被告人に特段の返答をしなかつたのかも知れないが、今となつては知る由もない。

(八)、これを要するに、本件において被告人が、たとえサルソグレラン静脈注射をする際に、「薬物による異常反応の経験の有無」を患者平岡に詳しく問い正さなかつたとしても、当時のわが国の通常の医師あるいは平均的医師の持つべき知識としては、サルソグレラン静脈注射はピリン系薬剤に対する過敏者あるいは特異体質者への副作用には、前記のようなアレルギー症状を呈する場合のあることを限度に、それを超えて薬物シヨツクにより急死に至る場合のあり得ることは全く認識されていなかつたことが明らかであること、及び、本件における患者平岡の前記病歴に鑑み、被告人が「以前に何か変つた病気をしたことはありませんか」との質問をし、最後に「サルソグレラン静脈注射をしましよう」と告げていることを併せ考えると、医師として仮りに副作用があるとしても右の限度を出ない範囲での反応しか予測できなかつた被告人の平岡に対する問診は右の程度で十分であつたと認められ、前認定の諸事情のもとでそれ以上に被告人の全く知悉しない平岡個人の純粋に内部的な事情たる前記異常反応の経験事実を知ることを求めることは、本件において通常の医師として予見されるべき以上の難きを求めるものと言つても過言ではない。

二、の2の点につき

(一)、更に進んで、本件において平岡にサルソグレラン静脈注射を行つたのは医師たる被告人ではなく、看護婦池田敏子であり、また池田が注射するに際しては被告人が予め注射方法等につき何の注意も与えずに注射を行わせたことは前認定のとおりであり、静脈注射を看護婦池田が行つたことは前記のとおり保健婦助産婦看護婦法第三七条につき有権的解釈が一応なされている以上これに抵触するものとのそしりは免れないかも知れないけれども、そのことから直ちに被告人が池田に指示して静脈注射をさせた点につき被告人に過失があるとの結論を引き出すことはできない。

(二)、本件における問題は、むしろ被告人が池田看護婦に行わせた静脈注射の指示方法、その実際の注射方法、技術において、被告人に医師としての監督義務に欠けるところがあつたかどうかにある。

なるほど、静脈注射は身体にとつて異物たる薬剤を血管内に注入する危険な治療方法の一つであり、また薬剤が速効を以て現われるため細心慎重な態度で行われなければならないことはいうまでもないところである。

本件において、被告人は池田看護婦にサルソグレラン静脈注射をするよう指示したときに、注射速度等につき特に何らの注意を与えていないことは前認定のとおりであるが、池田看護帰は経験約一四年の熟練看護婦であり、静脈注射についての知識技術にも習熟していたこともまた前認定のとおりであつて、被告人が日常多用するサルソグレラン静脈注射に関し一々注意を与えていないからといつて何の不思議はなく、現実に池田看護婦が平岡に対し行つた静脈注射の方法も前認定のとおり何らの手落ちも認められず、本件平岡の薬物シヨツク死は被告人自身が静脈注射を行つていようと池田看護婦が行つていようと結局は避けられなかつたことが明らかに認められる本件では、被告人が池田看護婦に静脈注射をさせた点をとらえて被告人に監督義務を怠つた過失があるとすることも、もちろんできない。

四、結論

以上の次第で、本件公訴事実指摘の過失の点は被告人について総て認めることができないから、結局本件は犯罪の証明がないことに帰着し、刑事訴訟法三三六条に則り主文において無罪の言渡をなすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 原田直郎)

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